悪魔のように賢いと言われた男フォン・ノイマン,何とドラマチックな人生

 Wikipediaに書かれているフォン・ノイマンに関する解説は驚きに満ちている.我が国との因縁も深いものがある.
 特に本ブログの後半にご注目.
 Wikipediaこちらはてなキーワードでの解説はこちら.以下の引用はすべてWikipediaから.

1903年

 ハンガリーブダペスト生まれ.
 父母は共にハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人.6歳で8桁の割り算を行い,ギリシャ語(世界でも最も難しい言語という説を聞いたことがある)を話せた.8歳で微分積分をものにした.家の図書室にあった44巻本の歴史書を読了.世界史やゲーテの小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた.長じてからも数学書や歴史書を好み,車を運転しながら読書することもあったという.(危ないよ〜)

1913年

 父親が貴族の称号をお金で購入した.(お金で買えるんだ)

1921年

 ギムナジウムを首席で卒業.
 モーツァルトよろしく馬鹿馬鹿しいパーティーでハメを外すことを好んだり,乱暴な運転などで逮捕されたりした.(アマデウスだったんだ)
 23歳で数学(実験物理・化学も同時に)博士号を授与された.(これは早熟の天才でありそう)

1926年

 論文がヒルベルトに甚く気に入られ,ゲッティンゲン大学ヒルベルトに師事する.ヒルベルトノイマンに感心するばかりだったという.瞬く間にノイマンヒルベルト数学の旗手となった.(人との出会いだ)

1930年

 プリンストンに招かれ,プリンストン高等研究所の最年少会員に選ばれた(4人のメンバーのうち2人はアルベルト・アインシュタインとクルト・ゲーデルであった).ノイマンは1933年以降この研究所で数学の教授を務めた.(30才で大学教授)

研究活動

計算機科学

  • ノイマン型コンピュータ:EDVAC開発チームのジョン・エッカートとジョン・モークリーが発想した方式をまとめ数学的基礎を与えた.
  • セル・オートマトンの分野を自ら創出し,(当時はろくにコンピュータも無かったにもかかわらず)実に方眼紙とペンだけで,自己増殖の事例を構築してみせた.
  • ドナルド・クヌースは,ノイマンが,有名な「マージソートアルゴリズム(ソーティングのアルゴリズム)の発明者であると指摘している.
  • R.D.Ritchmyerとともに,"人工粘性"artificial viscosityを決定するアルゴリズムを開発.人類の衝撃波についての理解が進歩することになった.その後の天体物理学の分野の進歩や,高度なジェットエンジンロケットエンジンの開発に,この研究は大いに貢献している.流体力学,空気力学の問題をコンピュータで計算する時には,計算すべき格子点(グリッド)が多くなりすぎるという問題があるのだが,この"人工粘性"という数学的な道具を用いることで,基本的な物理学特性を損なわずに,衝撃の伝播をコンピュータで計算しやすい形で表現することができるようになった.

核兵器開発(ここからインパクト)

  • ドイツとの戦争に数値解析が必要と考えたノイマンアメリカ合衆国陸軍に自ら志願する.しかし,不採用.
  • しかし,ノイマンはほどなくして爆発物の分野での第一人者となり,特にアメリカ合衆国海軍へのコンサルティングの仕事をした.
  • この分野での彼の主要な結果に,大きな爆弾による被害は爆弾が地上に落ちる前に爆発したときの方が大きくなる,というものがある.この理論は,広島と長崎に落とされた原子爆弾にも利用された.(私は以前,長崎を訪れたときに,空中で原爆が爆発したことを知ったが,それをノイマンが発明/発見したとは,今回初めて知った)
  • ノイマンアメリカ合衆国による原子爆弾開発のためのマンハッタン計画に参加していた.ノイマンは長崎に投下されたプルトニウム原子爆弾ファット・マンのための爆縮レンズの開発を担当し, 1940年代に爆轟波面の構造に関するZND理論を確立し,この理論を元に10ヶ月に渡る数値解析によって,爆薬を32面体に配置することによって原子爆弾が実際に実現できることを示した.(原爆の発明に多大なる貢献!)
  • 日本に対する原爆投下の目標地点を選定する際には,京都への投下を進言した.

晩年(ここもインパクト)

  • 太平洋での核爆弾実験を観測した時や,ロスアラモス国立研究所核兵器開発の仕事をしていた時に放射線を浴びたことが恐らく原因となって,ノイマンは1957年に「骨肉腫」(あるいは「すい臓がん」)を発症した.
  • ノイマンの癌は,全身に転移した.結局,癌発症から数ヵ月後に,猛烈な痛みに苦しめられながら最期を迎えることになるノイマンだが,告知に接してから非常に取り乱していた.例えば3+4を解こうとしてもできなかった.
  • それまでに軍に多大な貢献をしたノイマンだが,国家機密を漏らす恐れがあると判断した陸軍により厳重な監視病棟に収容され,家族も含め一切の見舞いや看病も厳禁となり,監視役の数人の将校と軍医の立ち会いのもと寂しい最期の時を迎えた.
  • 1957年没.享年53歳

おわりに

 まさしく波乱万丈の人生である.超広い分野を研究した,最後の科学者かもしれない.核兵器開発から没年に至るまでは,極めてドラマチック.
 最近,大学の理工学部で技術者倫理を必修で教えるべきと言う議論があるが,技術者倫理の講義で,ノイマンは取り上げられるのだろうか?