クラウドコンピューティングの本質は何か

クラウド・コンピューティング ウェブ2.0の先にくるもの (朝日新書)

クラウド・コンピューティング ウェブ2.0の先にくるもの (朝日新書)

 上記の書は、メインタイトルが「クラウドコンピューティング」と、クラウドコンピューティング全体のことを解説しているかのような印象を与えるが、この本はエンドユーザを対象とした「クラウドコンピューティング」にフォーカスを当てている点に特徴がある。
 本書のサブタイトルは「ウェブ2.0の先にくるもの」となっている。ウェブ2.0はエンドユーザを対象とした、ウェブの方向性にネーミングしたものである。このことも、本書が、エンドユーザを対象としたクラウドコンピューティングを語っていることを示唆している。

 本書5章「クラウドの課題と未来」において、クラウドが「キャズム」(ハイテクの落とし穴)を乗り越えられるかと問い、乗り越えられたときには「ユビキタスコンピューティングの定着になる」としている。これも、エンドユーザのクラウドコンピューティングを本書が論じているための帰結だ。

 読者が本書を読み、クラウドコンピューティングは主としてエンドユーザのためのもの、すなわち、B2C形態のネットワークサービス中心のものだと思ったとしたら、早計である。

 手元のパソコンで動いていたアプリケーションプログラムが、ネットワークを介したサービスとして提供されるようになり、データの蓄積が手元のハードディスクでなく、ネットワークの向こうのサーバ、データセンターに保持されるようになったのは紛れもない現実である。しかし、「クラウドコンピューティング」と現在、称されている現象あるいは方向性は、そのような外部から観察可能な現象に留まるものではない。

クラウドコンピューティングの本質

 私の考えるところ、クラウドコンピューティングの本質は、コンピュータ資源、コンピュータインフラの共有にこそある。単なる資源共有であれば、1960年代から大型計算機(メインフレーム)によって実現されていた。当時の大型計算機は、今のマイクロプロセッサに比べれて性能は低いが、極めて高価であったため、共有するより選択肢は有り得なかった。また、ソフトウェアの生産性も高くないく、アプリケーションの種類が限られていた。

 マイクロプロセッサ、ストレージや音声・動画入出力等の周辺装置、ネットワークの普及により、「情報機器爆発」とも言うべき現象が発生し、サーバマシンとクライアントマシンの数が爆発的に増えた。エンドユーザのマシンが増えたのは、一人一台もしくはそれ以上の情報機器を使いたいというユーザの本質的な欲求に基づくものであるが、サーバマシンの増大は、本質的に望まれたものではなく、管理コストの増大、保守やセキュリティ保全コストの増大をもたらした。

 「クラウドコンピューティング」は、サーバ側計算機の集約化を可能とする技術が、米国の一部の企業を中心として進み、現実的な技術として成熟してきたことによって現実のものとなった。この技術は、ネットの「向こう側」に隠れている技術であり、エンドユーザがいる「こちら側」からは、よく見えない。そのために、一部マスコミ関係者、あるいは、一部産業界からの「クラウドは新しいものではない」、「結局は(古い技術の)焼き直しに過ぎない」という意見が出てくるのであろう。

 システムソフトウェアは、アプリケーションソフトウェアと異なり、見えない、すなわち、透明であればある程、成熟した、優れた技術なのである。極論を言えば、透明になっていないシステムソフトウェア技術は未成熟な技術である。

クラウドコンピューティング」はバズワードか?

 世の中では、ウェブ2.0、あるいは、グリッドの次の「バズワード」としてクラウドコンピューティングが来たと思っているようである。ファッション的流行語の一種だと。ネーミングが流行語的側面を持つことを否定はしないが、コンピュータの世界に限らないと思うが、ネーミングは進化の一過程、あるいは、一つの方向性を語るために為された行為であり、「お祭り」のための囃子言葉ではない。拙ブログ「私は競争と評価が大嫌いです、そして、文化を創ることについて」で書いたように、コンピュータ分野において、日本は「文化」を創り上げることにあまり成功していない。ネーミングは、文化を創り上げる過程で行われる行為の一つだ。一時的な流行語なのか、歴史的な必然性をもつ現象を表現した言葉なのか、洞察しながら、言葉を使っていきたい。もし日本で、コンピュータ分野において「文化」を創り出しているときには、日本発のネーミングが行われ、世界を駆け巡るであろう。