研究とは、嬉々としてモノ作りに励むこと

まえがき

 先日、あるパーティで年上の研究者の方と久しぶりにお話しする機会があった。

 同氏:「加藤さんはいつも楽しそうに研究しているようでいいですね。」
 私:「そう見えますか。とすれば嬉しいことです。そうありたいと、そう見えるように努力しているんですよ。」

「競争と評価」の時代

 最近、大学・研究機関の公的研究費は、競争的外部資金と呼ばれ、数倍から数十倍の競争率で激しく競争することが求められる。厳しい競争をくぐり抜けて採択された後も、中間評価を何度もされ、最後に事後評価がなされ、評価結果はインターネット上で公開される。

 厳しい財政事情の中、他の予算に比して相対的に、科学技術予算は優遇されていると言われている(国際的に見れば、優遇されているとは言えないが)。それはおそらく、平成7年に制定された科学技術基本法のおかげである。これを実現するために、科学技術基本計画が5年ごとに定められ、さまざまな科学技術予算が組まれている。

 科学技術予算、他の我が国の政府予算に比べて結果的に優遇される代償として、研究費に対するチェックは厳しくなった。前述したように、採択のための厳しい競争をし、採択後は中間評価、事後評価をされる。また現在の研究者は、研究内容、論文発表状況に加え、予算獲得しているかどうか、どのような学内外の活動をしているかを定期的に評価される。また研究者だけでなく、研究者が所属する機関も同様に評価され、競争が促される。研究費だけでなく、教育経費まで、競争的に獲得することが求められ始めている。研究者にとって今はまさに「競争と評価」の時代なのである。

 数十年前、私が大学院生の頃、「米国ではpublish or perish(論文を出版するか、消えるかだ)だそうですが、ああいうのはいかがなものですかな」、「うちはpublish or perishで行きますよ」等と議論していた頃が懐かしい。

 このような背景をもとに、原島博先生は「私は競争と評価が大嫌いです」と仰られ,その意味を説明するために半年掛けて講演準備をなされ、その講演を聴いた私はブログ「私は競争と評価が大嫌いです」を書いた。

 私はおそらくラッキーな人間だ。研究、および、教育について、これまでにいくつかの競争的外部資金を頂くことが出来た。その経験が買われたのか、選考する側の仕事もいくつかやらせて頂いた。自分自身が激しく競争し、厳しく評価され、また逆に,選考・評価する仕事をしてきた。原島先生とは、後者側の仕事を一緒にやらせていただく機会で知り合うことができた。原島先生から最初に「私は競争と評価が大嫌いです」ということを伺ったときは意外であった。「そうだったのですか。実は私もそうだったのですよ」という思いであった。

嬉々として研究したい

 前述のブログを公開したところ,経産省産業技術研究所の橋田浩一さんより、Twitterで鋭いコメントをもらった。
 橋田氏曰く、「重要なのは仮説検証サイクルを回すことであって、(他者による)評価や(他者との)競争じゃないということですね。」
 さすが橋田氏、鋭い御指摘である。僅か一行で言い表している。
 私達研究者は、理学的にはより本質に迫った理解をしたい。工学的には、より良いモノを作りたい。理学的な理解も、理論、モデルといった「モノ」作りであると考えられよう。
 例えば、こうすれば、より良いモノが出来るのではないかと作ってみる。あるいは、設計してみる。良いモノができたなと思ったら、人に見せたくなる。見せると大概、よいけど、こういうところがイマイチですね、等とグサッと来ることを言われ、なるほどと思い、また改良に励む。そうして繰り返していくうちに、いつしか本当によいモノが出来ていくことがある。よいモノはそう簡単にはできない。また、確実にできるという保証もない。膨大な時間とエネルギーを要する。でも、好きでやっていることは苦労を苦労とも思わない。むしろ、嬉々として延々とやり続ける。
 上記のようなサイクルをグルグル回したいのだが、そのサイクルを回すためには、科学技術分野の場合、研究資金というものがいることが多い。研究資金を獲得するためには、競争せねばならない。獲得したら評価されねばならない。評価が悪いと言うことは、税金を無駄に使ったと言うことを意味する。だから、評価が悪くならないよう、研究を計画する段階から、あるいは、研究テーマを選ぶ段階から、競争を勝ち抜くことに加え、評価を気にしたりする。
 競争と評価は、研究者の心身を疲労させる。
 iPS細胞研究で有名な山中伸弥氏は、1月3日朝日新聞6面でこう言っている。「せめて10年、資金繰りと雇用を心配せず、研究に没頭させて欲しい。成果が出なければ10年後にクビにしてもらってもいい」
 研究は、プロの仕事である。どんなプロでもそうであろうが、プロが仕事に集中しているとき、異様なまでのエネルギーをそこに注ぎこむ。嬉々としてやれる仕事であるだけ、恵まれているのであるが。プロがよい仕事をしようと思ったら、それ以外のことで心身を疲労させたくないのである。

 私のこれまでの経験によれば、「競争と評価」の繰り返しの中から、世界に誇れる「文化」を創り出すことができるかは疑問である。
 我々研究者がやりたいことは、嬉々としながら、仮説と検証のサイクルを回す作業を地道に繰り返し、それによって良いモノを創りだしていくことである。嬉々として研究できる環境を作ることが、結果的に、税金を有効利用することにつながるのではないかと考えている。